お盆のお花から思う、お花を飾ったり手向けるという事の本当の意味

こんばんは。内藤正風です。

今日は8月最初のお稽古日でした。
今月はお盆の月なので、これからお盆のお花のお稽古が本格化してゆきます。

お花を生けなくても、生活をしていくことが出来る

お盆だからお花??そんなん関係ないやん!!って思われる人もあると思います。ええ、お花を生けなくてもお盆は勝手にやってきます。
ってかお盆だけに限らず、毎日過ぎてゆきます。
お花生けなくてもお腹はすきません。お花生けなくても車は走ります。お花生けなくても自分の生き死にには関係ありません。(笑)

ではなぜお花を生けるのか。。。少し考えてみました。

なぜ仏前にお花を手向けるのか

お盆の月なので仏前のお花で考えてみたいとおもいます。仏前にお花を飾るのは、亡くなったご先祖やお父様お母様のためにお供えしているのですよね。
って言っても、死んだ人は笑いも喜びもしません。だって死んでそこにいないんですから。魂は生きているとか、あの世からこちらを見ているとか言われてもそんなの私には全く分かりません。だって、霊感とかそう言う類いのもの全く持ち合わせていないですから。(笑)

ただ私の場合、仏壇にお花をお供えしたら、亡くなった親父やお袋はきっと小さくニコッて微笑んでくれているだろうな~と思うのです。
きっと口に出して嬉しいと言うことは無いと思いますが、喜んでくれているだろうなと感じるのです。

そう、仏前のお花は、そこにいない人のためにお花を手向けているのです。

そこに居ない人のためにお花を手向けるとはどういうことか

自分の方を見て笑顔になってくれたり、ありがとうと声を掛けてくれることも無いのになぜお花を手向けるのかというと、それは、自分の心の平安の為なのだとおもいます。

先に書いたように、仏壇にお花をお供えしたら亡くなった親父やお袋はきっと小さくニコッて微笑んでくれているだろうな~とか、喜んでくれるだろうなと感じるというのは、自分の思いこみです。
本当に喜んでいるとかいないとかは全く関係ありません。自分がそう思うというだけのことです。
(笑)(笑)

しかしその事で、心が安らぐのです。
何か幸せを感じる事が出来たり、安心する事が出来たり、肩の力が抜けたりするということなのです。
結局仏前にお花を手向けるということは、自分の心に向かってお花を手向けているという事と同じなんだろうなと思います。

お花を手向けるという行為は、自分の心に花を手向けるということ

仏教ではお供えをした瞬間に、それは仏様からの下さりもの(お下がり)になるという考え方が有ります。
そんな中わたしは、仏前のお花も結局この考え方と同じなんだろうなと思います。
目に見えぬ仏様にお花を手向けるというのは先祖の安寧をお祈りしている行為でもあります。しかしお花を花筒挿して仏前に飾った瞬間に、ご先祖さまから私達へ心の安寧を下さるお下がりになるのだなぁと思います。

お花は単なる装飾ではありません。絵や壺や彫刻や家具とは違うのです。お花には命があり、そう言う特別なモノを飾るということは、心を生けるということでもあると思うのです。

お盆の月ですから、お花1本でも良いのでお部屋に飾ったり仏前に手向けたりしてみてはいかがでしょうか?
必ず父親と母親があって自分がそこに存在しているのです。その親にも親がいる、すなわち先祖があるのです。
そんな事にチョビットだけでよいので思いを馳せてみるだけで、先祖供養になるのではないかと思います。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。