「個性」を人と違う事と解釈するからおかしくなるのです。周りを見るのではなく自分を見、足りないところを見るのではなく良いところを育てるのが個性につながるのです

ごきげんよう、こんにちは、そしてこんばんは、内藤正風です。

昨日、ある本を読みながら、「いつから日本はこんな国になっちゃったんだろう」ってふと思ったので、今日はそんな事についてブログを書きたいと思います。
ちょっと過激発言が含まれるかもしれませんが、気になったら1人で ”イィ~” ってなさっててくださいね。反論して頂いても私の思いを書いているだけで議論する気は全くありませんので。

いつから日本は個性を認めない国に成り下がったのか

「日本人」と聞いて思い描かれるイメージって、勤勉、集団行動が得意、礼儀正しい、我慢強い、謙虚などがあると思います。
そんな中、私はここに日本古来の日本人の特徴として「個性を尊重する」というモノがあると思っています。
とはいえ今の日本や日本人を全体的に見たときに、個性を尊重するなんて言葉では言っているかもしれませんが、そんな現実はどこにもないと思っています。

それはSNSなどに代表されるように、人と違う事をしたらみんなで集まって二度と立ち上がることが出来ないところまで袋叩きにするという、1億2千万人総監視国家の様相を呈している事からもご理解いただけるのではないかと思います。
芸能人の○○が不倫したというニュースを見ては、それを当事者でも関係者でもないのに声高にワーワー言う。そしてもう二度と立ち上がることが出来ないところまで追い込み、次の標的が出てきたらみんなでそこに攻撃目標を変えてゆく。
と、こんな風に書くと「私はそんな誰かをSNSで攻撃するような投稿をしたことはない」とか、「皆がしている事を苦々しく思いながら見ていた」なんておっしゃられる方があるでしょうが、私から言わせれが、見て見ぬふりをしていた全員が同じ穴の狢です。

皆と違えば口撃、自分と違ったら口撃、その結果周囲に神経を張って、皆と違う事どころか目立つことをしない様に気を配って生きてゆく。それがスタンダードな国になってしまっているように感じるのです。

個性は人と違う事ではなく、自分と違うところを認める事

さてここで、私が思う(感じる)日本人の多くの人が間違った捉え方をしている「個性」という事について書きたいと思います。

まず「個性」とは人と違う事をする事ではありません。人と違う事をするという捉え方の先には、真っ赤なジャケットで黄色のシャツを着て青のズボンをはくみたいな”奇をてらった”考えや行動しか生まれていません。これは個性では決してないという事です。では個性とは何かというと、その人の内面から出てきた思考や行動であり、それが結果として人と違う時もあれば同じこともあるという事なのです。
つまり本人にとっては人と違う事をしている意識は1mmもなく、普通にしているという感覚でしかないのです。

それでは「個性」とはそもそも何かというと、相手が自分と違うところを認めるという事に他ならないのです。
相手が自分とどう違うのか、それを見て把握し受け入れるという事です。

日本の神様はポンコツだらけ

日本がなぜ個性を認める国だと私ごときが胸を張って言えるのかというと、それは神話にあります。その国を知りたければ神話を紐解けという言葉があるように、その国の生い立ちやその国の価値観がはっきり表れているのが神話にほかならず、神話が大切にされなくなった国は滅びるという言葉もあるくらい重要な存在になります。

日本の神話を紐解くと、気が付く3つのことが有ります。
まず1つ目は、沢山の神様が居られるという事です。
諸外国では神と言えば唯一無二の存在であり絶対的な存在という風に考えられています。なので自分たちが大切にしている絶対神以外の神や宗教は全て邪悪なものという考え方になり、共存共栄という思考にはなりません。
しかし日本では、物言わぬ植物や道端に転がっている石、そして言葉に至るまで、すべてのモノに精霊(神)が宿るという八百万(やおよろず)の考え方で国の歴史を積み重ねてきているという事です。

そして2つ目に、日本の神様は全員短所があるという事です。
日本の神様は先にも書いたように、全知全能ではありません。つまり長所もあるけれども短所もあるという事です。
例えば、アマテラスオオミカミが天の岩戸にお隠れになられた原因を作ったのはスサノオノミコトです。スサノオノミコトがあまりにも暴れん坊過ぎて、その所業からアマテラスオオミカミのお気に入りの人が亡くなられてしまい、それが原因で天の岩戸にお隠れになられたのです。ま、今風に言えば、拗ねて部屋に籠っちゃったっていう感じで、”引きこもり”の日本第1号って事でしょうか。(天照大御神さんゴメン)しかしそれで世の中が暗闇になってしまってみんなが困ったという話は皆さんご存じの通りだと思います。
そしてそんな一見すると超の付く暴れん坊のスサノオノミコトですが、その溢れんばかりの覇気があるからこそヤマタノオロチを退治し世の中を平穏にしてくださったのも有名な話ですからこちらもご存じの通りだと思います。

そして最後3つ目に、神様はそれぞれの得意分野で協力しあいより良い世を作り出されているという事です。
先程も書きましたように、それぞれの神様には得意分野があり、それぞれが自分の得意分野をもって協力し合い日本という国を作り上げられており、今風に言うならば”ゴレンジャー”(全然今風でなくてごめん)みたいに、皆で一致協力して難問にあたっておられるのです。
そうなんです。あの戦隊ものの始まりは神代の時代にあったのです。

人を見るのではなく自分を見、足りないところを見るのではなく良いところを育てるのが日本の伝統

個性とは人と違う事を言うのではないという事、つまり他の人と違おうと思ってできたものではなく、内包されていた他にはない魅力が表に表れたという事に他ならないのです。
人と比べるから個性がなくなるのです。足りないところを見るから個性がなくなるのです。

大東亜戦争までの日本は、神話に基づく国造りがなされていました。だからこそこれまで近隣諸国や欧米諸国の植民地にならずに、国の歴史を積み重ねる事が出来てきたと言えるのではないかと私は思っています。
そして歴史上の人物の全てが、強烈な魅力を放っている分と同じだけ人間失格と言ってもよいくらいのダメダメな部分を併せ持っており、だからこそ極めて個性的であり特徴的であり魅力的なのだと思うのです。

なんか日本の教育制度の批判みたいになっていますが、私はそんな事を言いたいのではなく、私達1人1人がこのままでいいのかどうかをちゃんと考え、もしよくないのであればチャンと声を上げないといけないのではないかと思うのです。
私さえ我慢していれば。。。ではないのです。そのツケは子や孫やひ孫に確実に回ってゆくのですから。
大きく何かを、あるいは誰かを変えようと思うのではなく、まず自分が変わる事から始めないといけないなあと思います。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。