「教える」と「指導」は似て非なるものであり、いけばなにおいて導くことを抜きにしては絶対にならないのです

ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。

過日、光風流の役員の先生と、「教える」という事と「指導」という事についてお話をさせていただく機会がありました。
今日はそんなことについて、徒然にブログを書きたいと思います。

「教える」と「指導」を同じ事だと思ってはいけない

結論から申し上げますと、「教える」と「指導」は似て非なるものであり、全く違う事柄です。そして私達いけばなに携わるものが大切にしなければならないのは、「指導」になります。

ちなみにこの違いをざっくりと申し上げるならば、「教える」は知識や技術そのものを相手に伝達・付与する行為を指します。
一方「指導」は、知識やスキルを伝達するだけでなく、相手を具体的な目標達成や自立へと導く、より能動的で段階的な行為になります。

つまり指導には「導く」という意味合いが含まれ、相手の能力を引き出し、長期的な成長を支援するために必要な事を施すという事がなければならないのです。

いけばなのお稽古は、お花を生ける知識や技術だけを教える事ではない

いけばなの先生と言うと、お花を生けるために必要な「知識」や「技術」を生徒さんに教える事がその役割だと思われている方が多いですが、大きな間違いです。

私が若い頃に先代家元から言われた言葉があります。それは「いけばなのお稽古とは、お花を生けて練習だけをしていたらそれで良いのではない。お稽古が終わったその後に、生徒さんとお茶を飲みながら色々なお話をするまでがお稽古だと言う事を忘れない様に。」と言う事です。
その時には私もまだまだ未熟であり若かったので、その言葉の真意をしっかりと理解することが出来ておらず「ふーん・・・」くらいに話を聞いておりましたが、今から思えば正にこの時に「教える」と「指導」の違いを私に言ってくれていたのです。

いけばなの本意はお花を綺麗に生ける事ではなく、いけばなを通じた学びを生かし、自らの人生を豊かで楽しいものにする事

いけばなは、お花を生けるための知識や技術を学ぶ事が最終目標ではなく、学んだ知識や技術、そしていけばなを通じて学んだ教えを活かして、日常生活やお仕事を充実させると共に豊かで楽しいものにする事こそがその本意になります。
言い方を変えると、お花を生けながら学んだ事は言うなれば「道具」です。この道具を自分の日常やお仕事の中でいかに役立ててゆくかはその使い手しだいであり、役立つものになるようにするためには、お花の知識や技術を教える事だけではなく、その生かし方まで理解を深めて頂くためには「指導」でなければならないのです。

お花をいくら綺麗に生けても、その人は幸せになりません。ま、綺麗に生けることが出来たという自己満足という幸福感は得られるでしょうが。
お花を生けるという事を通じて得た学びを、日頃の生活やお仕事において、生かしたり役立てることが出来るようになっていただくために導く事こそが、生徒さんを具体的な目標達成や自立へと導く、能動的で段階的な行為こそが私達いけばなに携わる者の務めであり、本意であると私は思います。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。