老若男女に関係なく、「必要は学びの母」であり「興味は学びの父」であるということ
ごきげんよう、こんにちは、そしてこんばんは、内藤正風です。
年配の女性とお話をしているときに、よくこういうお話をお聞きします。「若いころに ”いけばな” を習っていたんだけれど全く身についていなくて。。。。。」
このお話をされている方は恥ずかしいことのように仰られているのですが、これって実は、それが普通なんです!
人間は ”忘れる生き物”
若いころに習われたお花は、自ら進んで「私お花習いたい~~!!」ってお稽古されたのでしょうか。それとも、親に習いなさいって言われたのでお稽古に行かれていたのでしょうか?
あるいは学校のクラブ活動に ”いけばな” があったので、内申書の点数稼ぎになればと思ってお稽古されていたのでしょうか。(笑)
少し視点を変えて考えてみましょう。たとえば高校の授業で習われた事を覚えておられますか?あるいは大学で学んだことを覚えておられますか?
たぶん大半はすっかり忘れてしまわれているんじゃないかと思います。
けれどお仕事に関係ある事とか、日頃必要で使っているような事は覚えておられると思いますし、日々活用されていると思うのです。
この事から分かるのは、お花だけに限らず、必要に迫られてとか、自ら興味を持って学んだことはすぐに覚えますし忘れなかったりしますが、そうでない事は全く身につかないし、一時的には覚えてもすぐに忘れちゃうのが人間だという事なのです。
「必要は学びの母」であり「興味は学びの父」
と、こういう言い方をすると、人間ってダメダメみたいに聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
必要に迫られると、人間は覚えようと意識しなくても覚えちゃいます。面白いなぁ。。とか、好きだ!!って事は、やりなさいと言われなくても、自ら進んで取り組みます。これが人間の真理なのです。
なので雑談している中からでも、自分に関係ある事や、今、自分が必要としているような事は耳というか記憶に残ります。逆にどんなに良い講義を聞いていても、必要に迫られていなかったり興味が無ければ、そのほとんどが役立つ情報として記憶に残ることはないのです。
意識する。興味を持つ。必要に迫られる。これこそ学びの一番の原動力だと思います。そう、「必要は学びの母」であり「興味は学びの父」なのです。
意識や興味が生まれた「今」が、スタートに相応しい
なので、若いころに習われた「いけばな」が全く身についていなくても、恥ずかしがることは無いのです。
だって人間はそういう動物なんですから。
「若いころにお花習っていたんだけれど全く身についていなくて。。。。。」って言われているという事は、今いけばなに興味があるとか、いけばなが自分の近いところにある、あるいは必要に迫られているって事の現れです。
そんな時には、今、学べばいいのです。今、行動すればいいのです。だって今日はあなたにとって1番若い日なのですから。スタートを切るのに、”今日” ”今” より相応しい日は他にはありませんよ。
内藤正風PROFILE
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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。