いけばなでお花を生ける行為は、知らず知らずのうちに瞑想しているのと同じ効果があるのをご存じですか
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ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
昨日は光風流本部いけばな教室のお稽古日だったのですが、その中でお稽古に来られている生徒さんと「瞑想」という事についてお話をする機会があったので、今日はそんなことについてブログを書きたいと思います。
「瞑想=何もせずにじっとしながら行なう」というのは間違いだと私は思います
皆さんは「瞑想」されていますか。と、こんな風にお聞きして、「はい」と答える方も少ないと思います。ちなみに瞑想って聞くと、座禅とかが一番最初に頭に思い浮かぶ方は多いかもしれませんね。
ところで瞑想というと、心を落ち着けて動かずに無心になるという風に考えられている方が圧倒的に多いと思います。がしかし、無心になるという事で考えると、じっと座っていなくとも、あるいは瞑想という形をとらなくても、無心になるという事はできると私は思っています。
瞑想とは手段であって、瞑想状態に入ることが目的です
世の瞑想に対する取り組み方って、私は間違ってしまっている人が多いと感じています。もう少し具体的に言うと、目的と手段が逆転してしまっている人が多いと思うのです。
多くの方が、心を落ち着けるために瞑想をしようとされますよね。これが間違えているのです。瞑想が無心になるという事であるならば、瞑想とは瞑想という行為を行なう事ではなく、瞑想状態になる事こそがその目的だと思うのです。
つまりそれは、何か一つの事に集中する事によって、他の事を考えなくなるという事と同義だと思うので、無心=何一つも考えないという事とは違うと思っています。
なので、子供が集中して遊んでいて、周りから声を掛けられても全く聞こえていない状態の事を、「子供が無心で遊んでいる」と言う様に、これこそが無心の状態であり、これこそが瞑想状態にあるのだと私は思うのです。
無とは何も無いのではなく、雑念を払うと考えるべきです
瞑想の代表として「座禅」が挙げられると思います。座禅とは禅の修行の一つで座って行う瞑想になります。ではこの瞑想という修行は座禅しかないのかというと決してそんなことはなく、禅においては日々の食事や掃除や作業などを通じて無になるという事も修行とされているのですから、私は何か一つに集中して、それ以外の感情や思考に捉われなくなる状態は瞑想であると言えると考えています。
そしてこれは、いけばなにおいて「お花を生ける」という行為こそが、正に瞑想の要素を含んでいると私は思っています。
いけばなでお花を生けるという行為は、正に瞑想です
いけばなを生ける時には、まず器を用意したり花材を用意したり、水や道具を用意したりします。この作業というのは一般的には「準備」という二文字で片付けられてしまいますが、実はこの作業こそ、お花を生ける時に深く集中できるようにするためのアイドルタイムだと言えるでしょう。
なのでこういう作業をしながら、日常の感覚からお花と向き合うための心の準備が、知らず知らずのうちに出来ていっているのだと私は思うのです。
そしてお花を生け始めると、植物の姿を見、植物からの声に耳を傾け、自分の心と向き合いながら一つの作品を作り上げてゆきます。
いけばなをお稽古されている方が「お花を生けているときには、他の事を全く考えずに集中している」と仰られる方が多いですが、これこそが正に「瞑想状態」に入っているのです。
お花を生けるという行為は、単に心を静める効果があるだけでなく、お花を生けるという行為を通じて「今」「ここ」に集中しながら自分と向き合っている時間に他ならず、これを瞑想と言わずして何だといえるでしょう。
そんな風に私は、「瞑想」と「お花を生けるという行為」の関係と効果を捉えると共に理解しています。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。




