節分は人知を超えたものへの畏敬であり、私達いけばなを行なう者は、1本のお花を手に取り自らの心の「魔滅」を行なうのも、節分に相応しい過ごし方だと思います

ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。

明日はいよいよ「節分」ですね。小さなお子様が居られるご家庭では、豆撒きなどなさることと思います。
ちなみに我が家も子供が小さい時には豆撒きをしていましたが、子供が大きくなり、そして大人になって、今では、お世話になっているお寺から毎年頂く豆撒きの豆をおつまみにしながら晩酌して、豆撒きならぬ「豆呑み」をしています。(笑)

人知を超えた力や存在に対する畏敬

さて、この豆撒きですが、その根底にある考え方は「いけばなの考え方」と一緒だと私は思っています。それは一言でいうならば、「人知を超えた力や存在に対する畏敬」です。
日本人は古来より、「全てのものに精霊が宿る」という八百万信仰を基にした国造りがなされてきました。そしてこの「全てのものに精霊が宿る」という考え方は、石ころ1つであっても自分と同等に扱うという相手に対する敬意になり、自然をはじめとする人の力や考えが及ばない存在に対する畏れという、畏敬の念になったのです。

ちなみにこの「人知を超えた力や存在に対する畏敬」は、私達の生活から遠いところにある考え方なのかというと、けしてそうではありません。
神社やお寺にお参りする事や、お正月、トイレの神様、節分の豆撒きなど、日常のありとあらゆるところに寝ずいていますし、私達が行なっている「いけばな」も、この「人知を超えた力や存在に対する畏敬」を抜きにして考えることはできないのです。

いけばなの根底には、人知を超えた力に対する畏敬がある

「いけばな」は、植物を素材として作品作りをします。そして日本人の考え方においては、この素材とする植物は命ある存在であり、加えて人知を超えた力が備わっていると古来より考えられています。
一例を挙げますと、植物って一本の枝を切っても、根元はもちろんそのまま生きていますし、切り取った先の部分も水につけているとそのまま生きていますよね。こういう力は、人間はもちろん動物にも虫にも無い力です。
その他にも、柳の様に切り取った枝を水につけていると根っこが生えてくるものが有ったり、切り取った枝を土に挿していると根付くものがあったりする事から、その生命力や存在は人の知恵や力を超えた神仏に近い特別な存在として考えられており、だからこそ神様や仏様をお祀りするときには必ずお花というか植物を手向けるのです。

1本のお花を手に取り、自らの心の「魔滅」を行なう

その様にして考えると、豆撒きで使う豆も植物なんですよね。豆には古来より、生命力と魔除けの力が備わっている特別な物と考えられているからこそ、豆を撒く事で邪気を追い払う事が出来るのであって、鉄の玉や石の玉ではだめなのです。

とにかく、家族や大切な人の無病息災や平穏無事を願うのは人間共通の思いでしょうから、明日は豆撒きという行為を行なわれる方もなさらない方も、心の中では「平和安寧」を祈るのが良いと思いますし、もう少し見方を変えると、鬼は自分の周りにいるのではなく自らの心の中にいると言われたりもしますので、一輪のお花を器に挿しながら自分の心と向き合い、心の「魔滅」を行なうのも節分に相応しい過ごし方だと私は思います。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください