「事始め」を開催しながら思った、上辺だけを継承すると細部に意識がゆかなくなってしまうという事
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
今日は光風流本部いけばな教室において「事始め」を開催しました。
今年も事始めを開催することが出来るのも、光風流を学ばれている皆さん、1年間支えてくださった指導者の先生方、役員の先生方の力に外ならず、本当に感謝しかありません。
「慣れ」が物事を駄目にしてゆく
こういう古来からの行事や定例の行事を開催している中でアルアルなのは、慣れによる「なんとかなる」という思い込みです。
ハッキリ言って、「なんとかなる」なんてのは思い込み以外の何物でもなく、そんな気持ちで準備を行なったら確実にグダグダになるのは、火を見るよりも明らかです。
私は「慣れほど怖いものはない」と思っています。確かに慣れる事によって生まれる良い点もあります。がしかし、慣れによって無まれる効果は、圧倒的に悪い面の方が大きいと私は感じています。
特にこういう定例の行事や古来からの行事においては、慣れから生み出される効果は悪い側面がほぼ大半を占めていると経験上思うのです。
上辺だけを継承しても意味は無い
さてそんな「慣れ」ですが、なぜ慣れが生まれるのか考えてみたのですが、その原因として大きいのは、物事の上辺ばかりを見ているからだと私は考えています。
つまり、その行事やイベントの上辺ばかりを真似るというか同じ様に出来ていれば良いと考えるから、本質に意識が向かなくなってしまい悪い「慣れ」に繋がってしまっているのだと思うのです。
何事によらず物事は、上辺や形だけを継承しても意味はありません。その本質を理解し大切にしながら、「何のためにその決まりや型はあるのか」、その決まりや型を行なう中において「何が求められているのか」を考え、適切な行動を起こさなければ、どんな決まりや型も形骸化するしかなくなるのです。
例えば、その表彰は何故行なっているのか。その表彰は何を伝えるために行なっているのか。そしてその表彰を行う型や所作は、なぜそのように決まっているのか。そこにこそ物事の本質が存在しており、その決まりや型は本質を伝えるために存在しているという事に他ならないのです。
「事始め」を、形骸化した伝統の行事にしてはならない
「事始め」は、「古くさいもの」でも「めんどくさいもの」でも、「とにかく型をなぞっていれば良いもの」でもありません。
確かに「事始め」は日本古来からの風習です。しかし「事始め」において行なっている全てを一つづつ見つめ、本質を正しく理解することが出来れば、その式次第の意味や、一つ一つの所作が持つ意味を軽んじることなく、開催することが出来ると共に、後世に引き継いでゆく事が出来るのです。
本質を理解しようとする事こそが、事始めを形骸化させないための第一歩だと私は思います。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。





