今日は日本にとって8月15日と並ぶ大切な日である「開戦記念日」だという事をご存じでしょうか
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
今日は来年の色々な事について、出来ることをコチョコチョと行ないながらの、ブログアップです。
さてそんな今日って実は、日本にとってとても大切な日になるのですが、あまり取り上げられないし、ご存じない方が多いのも実情です。なので今日は私のブログで取り上げたいと思います。
終わりがあれば始まりもある
日本では毎年8月15日を「終戦の日」として、あらゆるメディアで取り上げられますし、日本政府主催の全国戦没者追悼式も行われています。なので先の戦争の終戦の日がいつなのかという事は皆さんご存じですよね。
ではこの戦争の始まった日がいつなのかご存じでしょうか。
それが実は12月8日であり、日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告した日、いわゆる真珠湾攻撃を行なった日になります。なのでこの日を境にして、米英との戦争に突入した日ということです。
こんなに重要な日なのに、今日12月8日のことを学校でも習わないし、メディアでもあまり取り上げられないように思います。
太平洋戦争と支那事変
とはいえそもそもこの戦争って、この日から急に始まったものではありません。
一番最初は、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋(ろこうきょう)事件と呼ばれる日本軍と中華民国軍(※中華人民共和国は太平洋戦争が終わった後に建国されており、この時は中華民国という別の国だったのです。)との抗争が発端となって始まった支那事変から始まっています。なので先の戦争の全ての始まりを言うのであるならば、この日からになります。
しかしこの時はまだあくまでも日中の戦争であり、色々な国が参戦した状態ではありませんでしたが、日本が世界の中で急速に力をつけてきたことが気に入らない欧米諸国の存在がこの時代にあったのは間違いありません。
なぜならば当時は、基本的に白人が有色人種を支配するという考え方が世界のスタンダードでしたから、東南アジアや中国、アフリカ諸国などが植民地にされていた中で、日本だけが白人社会に逆らっている状態だったので当然といえば当然だったと言えるでしょう。
大東亜戦争と太平洋戦争
そんな中、昭和16年(1941年)の第二次大戦開戦直後に日本は「大東亜戦争」という名称を閣議決定しています。そしてこの戦争は、アジアの欧米植民地を解放し大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指すという理念のもとに行なわれたのです。
しかし今世の中で「大東亜戦争」と言われる人はとても少ないですよね。大半の方が「太平洋戦争」といいますし学校でも習います。これは、植民地を持つ国、すなわち連合国側にとっては極めて都合が悪かったため、戦後にGHQの占領政策で「太平洋戦争」へ強制的に変更させられたからなのです。
終戦の詔勅があるように開戦の詔勅もあります
終戦の8月15日に玉音放送で日本中の人が耳にした終戦の詔勅は皆さんよくご存じだと思いますが、終戦の詔勅があるように開戦の詔勅もあるのをご存じでしょうか。
詔書
天佑を保有し萬世一系の皇祚を踐たる大日本帝国天皇は昭に忠誠勇武なる汝有衆に示す。
朕茲に米国及英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
抑々東亜の安定を確保し、以て世界の平和に寄与するは丕顕なる皇祖考丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所、而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が常に国交の要義と為す所なり。今や不幸にして米英両国と釁端を開くに至る、洵に巳むを得ざるものあり。豈朕が志ならむや。
中華民国政府、曩に帝国の真意を解せず、濫に事を構へて東亜の平和を攪乱し、遂に帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸に国民政府更新するあり、帝国は之と善隣の誼を結び相提携するに至れるも、重慶に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて兄弟尚未だ牆に相鬩くを悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の非望を逞うせむとす。剰へ与国を誘ひ、帝国の周辺に於て武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。朕は政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに彌りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間却つて益々経済上軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめむとす。斯の如くにして推移せむか、東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり。
皇祖皇宗の神霊上に在り。朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す。
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日
各国務大臣副書
こちらを読むと、先の戦争がどの様なことを考えて行なわれたものなのかという事を少しは知ることが出来るのではないかと思います。
ちなみにこの開戦の詔書では、宣戦布告の相手はアメリカ、イギリスの2カ国だけなのですが、終戦の詔書では日本が宣戦を布告したアメリカ、イギリスのほかに、中華民国とソ連が加わっているのですが、これは、中華民国とは支那事変からすでに戦争状態にあったという事(何度も言いますが今の中華人民共和国とは戦争していません。日本が戦争したのは今の台湾にいる政府です)ですし、ソ連は終戦の日のわずか1週間前に日本に宣戦布告(なんかムッチャ卑怯に感じるのは私だけ?)しているので、開戦の詔書と終戦の詔書では当事国の数が違っています。
なぜ戦争に突入しなければならなかったのかを知ることこそ、今後のために大切です
日本人にとって今日12月8日は、8月15日と並ぶ大切な日でなければならないと私は思うのです。なぜならそれは、開戦時の日本の指導者たちは、勝ち目のないことを承知で大東亜戦争という出口の無い戦いへ突入していきました。その是非は今日の話とは直接関係のない事柄なのでとりあえず置いておきますが、開戦当時の事は戦後の色々な検証や史実によって明らかになってきているように、当時の陸海軍および各省、それに民間のエリートが日本の兵力、経済力、国際関係など、あらゆる観点から日米戦を分析した結果、最初から「開戦初期には勝利が見込めるが、長期戦になることは必至であり、日本の国力では資源不足と生産力不足によって戦力の低下は避けられない。よって戦局が決定的に悪化すれば、最終局面で必ずソ連が参戦し日本は敗れる」という、ほぼ戦争の結果通りの予測が建てられていたのです。
しかしそんな中にもかかわらず、なぜ戦争に突入しなければならなかったのか。なぜ戦争に突入してしまったのか。を誰かが悪いとか誰かに責任があるという事ではなく、シッカリと考える事こそが、これからの日本が誤った方向に進まないようにするためには必要なことであり大切なことだと私は思うのです。
開戦についてもし少しでも興味を持たれた方は、詳しくはググったりして調べてみてくださいね。それからここに書いたのは私の主観ですので、「違う!!」って言われてもどうしようもありませんのでよろしくお願いいたします。
内藤正風PROFILE
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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。