「和を以って貴しと為す」とは、単に ”仲良くしなさい” という事ではありません

ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。

今日は朝から、光風流の各支部で開催している講習会の指導にあたっていただいている講師の研究会を、夕方まで開催しています。

講師の先生方はとても仲良しなのですが、お花を生けはじめた途端にそれまでの和やかな空気感からピリッとした空気になり、そんな様子を拝見しながら一つの言葉が私の頭に浮かんだので、今日はそんな事についてブログを書きたいと思います。

「和を以って貴しと為す」

講師研究会を開催しながらどんな事について思ったのかというと、それは「以和爲貴(和を以って貴しと為す)」という言葉です。
この言葉は、聖徳太子が十七条憲法の第一条の一番最初に書かれた言葉として学校でも習いますので、有名な言葉ですし、皆さんよくご存知だと思います。

そんな中、この「和を以って貴しとなす」という言葉ですが、間違った解釈をされている方が結構多いように私は感じています。

「和を以って貴しと為す」とは仲良くしなさいということではない

「和を以って貴しとなす」という言葉は、”仲良くしなければならない”と言う風に解釈されがちですが、実はこの解釈では50点。。。。いや、30点にしかならないと思います。

「和」という文字からは「仲良くする」という意味を連想しがちですが、これって実は全く違う解釈だと私は思うのです。
ではここでいう「和」とはどういう事かというと、「同じ方向に向かって進んで行く」と言う意味だと私は考えます。

単に「仲良くする事が大切である」という事を言っているのでは無いと思う理由

なぜそのように思うのかというと、理由は、孔子の論語の一文、「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」にあります。

聖徳太子が孔子の論語を学んだのは間違いないと思います。何故ならばこの時代の日本のお手本は中国から伝わってきたものなのは明らかですし、当時の日本において、孔子の論語はバイブル的な扱いをされていたのですからまず間違いないと思います。
そんな孔子の論語の中に先に書いた一文「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というくだりがあるのです。

”君子” とは「優れた人物」、”和” とは「協調」、”同” とは「同調、馴れあう、主体性が無い」、”小人” とは「小者、つまらない人物」といい意味になります。つまりこれらを踏まえてこの一文を読み解くと、「優れた人物は確固たる自己をもちながらも協調するが、つまらない人物は慣れ合う事ばかりをして真の意味の協調をしない」と言う風になります。

この文章から影響を受けた聖徳太子が、「和を以って貴しとなす」の一文において何を意図しているかというと、「単に仲良くしなさい」という事を言いたいのではないということは容易に想像できますよね。

個々の能力や個性、各人の主体性を重んじながら、協調する事の大切さ

すなわちこの一文は、「確固たる自己をもちながらも協調しあい、同じ方向に向かって進んで行くことが一番大切な事である」ということを言われているのだと私は思うのです。
けして「迎合する」とか「他力本願」とは違うという事です。

今の私達は「和」という漢字を見ると、「仲良く」する事とか「同調」する事とか「妥協」する事とかの意味に捉えがちですが、ここで書かれている「和」の持つ意味は実はそうではなく、個々の能力を自ら最大限に育てると共に各人の主体性を重んじながら同じひとつの目標に向かってまい進してゆくこと、と理解するのが正しい理解ではないでしょうか。

そんな事を思ったので、今日のブログにしてみました

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。