技術や知識は表現の手段であり、人の心を揺さぶるのは技術だけではない
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
今日は朝から光風流で各地の支部の指導に当たっていただいている講師の先生方を対象にした研究会を開催しました。
様々なお話をさせて頂いたのですが、そんな中で思った「光風流いけばなの在り方」という事について、今日は誰かに伝えるというよりも、明文化することによって自分の思考を整理する感じでブログにしてみました。
”いけばな” は競い合う存在ではない
“いけばな” には勝ち負けがありません。それは、“いけばな” は、スポーツやゲームのように明確なルールのもとで競い合うものではありませんし、また誰かと争うものでもないことからもお分かりいただけると思います。
とはいえ ”いけばな” には「上手」「下手」はあります。しかしそれも、上手下手を評価する基準は決して一つではなく、時代や流派、さらには見る人の価値観によっても変わってきます。
たとえば同じ作品でも、ある人には洗練されて美しく見えるものが、別の人には冷たく技巧的に感じられることもあるでしょう。あるいは、技術的には未熟でも、作り手の思いがこもった作品が人の心を打つこともあります。
つまり ”いけばな” は競い合う存在ではなく、自己表現であり、心を伝える手段であるという事が出来ると思います。
人の心を揺さぶるのは、技術だけではない
と、こんな風に言うと誤解される方がおられるといけないので書き加えると、技術や知識の豊かさは大切です。技術を磨くことで表現の幅は広がり、より深く広い世界を描くことができます。しかし技術や知識だけを追い求め、技巧や理論に溺れてしまうと、いけばなは単なる作業になってしまいます。
どれだけ形が整い技法が駆使されていたとしても、そこに作者の思いや主義主張というような心が込もっていなければ、人の心を打つことはできません。むしろ多少不器用でも一生懸命に花と向き合い、心を込めて生けられた作品の方が、見る人の心に響くことが多いです。
これは幼稚園のお遊戯会で多くの大人が子供たちの演技を見て、笑ったり涙するのと同じです。完璧な演技ではないけれども、一生懸命に頑張る子どもたちの姿に私たちは心を動かされるのです。
技術や知識は表現の手段であり、目的ではない
いけばなも同じで、心がこもっていなければ、ただの形だけの物になってしまいます。もちろん、より高いレベルを目指して学び技術や知識を高めることは重要ですが、それ以上に大切なのは「どう生けるか」ではなく、「何を伝えたいのか」という心の部分です。
花と向き合い、花の声に耳を傾け、自分自身の思いを素直に表現することが ”いけばな” の本質なのです。技術や知識に頼りすぎると、自分の気持ちよりも形を整えることに意識が向いてしまい、本来のいけばなの魅力や楽しさが失われてしまいます。
技術や知識はあくまでも表現の手段であり、目的ではないのです。
光風流いけばなの在り方
だからこそ私たちは技術を磨きながらも、そこに心を込めることを忘れてはならないと私は思うのです。
上手か下手かどちらが良いかと単に聞かれれば、上手な方が良いとお答えします。がしかし、上手に生けることが全てではありません。大切なのは ”いけばな” を通じて何を伝えたいのかということです。
光風流で学ぶ技術や知識と、それぞれの方の思いや心という両者のバランスを大切にしながら、常に自分自身のいけばなを追求し続けること。それこそが、光風流いけばなの在り方だと私は思っています。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。