”こうでなければならない” という「型」に囚われるから、本質が見えなくなってしまうのです
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
今日からお彼岸ですね。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉もある様に、彼岸が過ぎればこの暑さも少しは和らいでくれるのでしょうか。
お彼岸に、あなたは何をされていますか?
さてそんなお彼岸ですが、皆さんはどんな予定をされていますか?お墓掃除とお墓参り。お家にお寺さんがお参りに来られる。お花をお供えする。ぼた餅作って食べる。何もしない。
ま、いずれにせよ、私はお彼岸ってご先祖様に思いを馳せる事をすればそれで良いんじゃないかと思っています。
人は忘れる生き物なのです
何かの本で読みましたが、人の脳は辛い事やしんどい記憶はドンドン忘れちゃうようになっているそうです。なぜなら、そうじゃないと辛い事をいつまでも忘れずにいると生きていけなくなってしまうからだそうです。
なので昔の事を考えると楽しい事ばかりが思い出されたり、辛かった事も良い思い出として甦ってくるようになっているのは、脳がそのようにしているそうなんです。
したがって人間の脳は、放っておくと亡くなった人の事も時と共に辛さが薄らぎ、それだけではなくて徐々に徐々に忘れて行ってしまうものなのだそうです。
とはいえ「それでは具合悪い」って事で、1年のうちに何度か親や祖父母をはじめ先祖に思いを馳せる機会を設けようって動機と仏教などがうまく結びついて、お盆やお彼岸と言う風習が定着していったんだと思うのです。
ま、これは私の勝手な解釈なので、反論されてもどうしようもないですのであしからず。
○○しなければイケナイ。○○でなければイケナイ。
なので「お彼岸だからお墓参りをしないとイケナイ」とか、そう言う考え方はしなくていいんじゃないかと私は思っています。
いや、お墓参りが出来るならしたほうが良いとは思います。行かなくて良いって言っているんじゃないです。
”○○でなければイケナイ” 、という考え方をしなくていいんじゃないかという事です。
形だけお墓参りをして「仕事忙しいのに面倒くさいなぁ~」なんて思っているよりは、「ゴメンねー仕事忙しくてお墓参りできなくてー」って手を合わせている方が、本意にかなっているんじゃないかと私は思うのです。
だって、お墓参りや墓掃除は、お彼岸やお盆じゃなくても行けるのですから。
「型」に囚われるから、本質が見えなくなってしまう
日本人って型あるものは、その型にこだわる人が多いですよね。日本人って真面目だなーって思います。ちなみにこれ実は、いけばなも同じなんですよね。
いけばなにも「型」があります。しかしこの「型」はお花を生ける行動を制限する外枠ではなく、逆に「型」を核として行動の範囲を広げるためのものなのです。すなわち「型」を学ぶ事を通じて、何故その「型」が定められているのかという「本質」を学ぶことが大切なのです。
「本質」を理解するから行動が自由になるし、自由なんだけれども大きな間違いを起さなくなってゆくことが出来るのです。
目の前で繰り広げられている事は単なる事象です。いうなれば単なる枝葉なのです。枝葉は風が吹けば揺れ、冬になれば葉を落とし、常に姿を変えています。そこには物事の本質は無いのです。
枝葉から目を移して太い枝から幹に目を移し、根元や根っこに目を移すように意識すれば、本質を感じる事が出来るようになります。
何事によらず、目に見えるものに囚われないことが一番大切なんだなーと思います。
内藤正風PROFILE
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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。