この世に無用なものはないのです。一見役に立たないように思うものにも、とても大切な役割があるのです。

こんばんは。
いけばなの光風流家元 内藤正風です。

今日は移動の電車で、このブログを書いています。

今日は午後から神戸の教室を開催し、その中で「間」と言うお話をさせて頂きました。
どういう話かと言うと、
「間」は洋の東西を問わず全ての物に存在している。と言う事と
特に日本文化はこの「間」によって成立している文化だと言う事です。

「間」は洋の東西を問わず全ての物に存在している

「間」とはすなわち「空間」あるいは「何もない部分」と言う事です。

人は「有る」と「無い」と言うように物事を考えがちです。
いうなれば、「有る」とは目に見える物、「無い」とは目に見えないものと言う判断です。
目に見えないんだからそこには何もないと思ってしまうのです。

しかし実はこの世の中、「無い」すなわち「間」や「空間」という目には見えない「何もない部分」が有るからこそじつは成立するし機能しているのです。

例えば人は空気が無ければ生きてゆけません。
空気は目には見えません。もちろん匂いも味もありません。

人は陽の光が無ければ生きてゆけません。
陽がさせば明るくはなりますが、陽の光自体は見えません。

中華の春秋戦国時代の哲学者、老子の言葉にも「無用の用」と言う言葉が有ります。
その中に「粘土をこねて作った器に何もない空間があるから、器としての役割を果たす。建物を立てて部屋の中に何もない空間があるから、部屋としての役割を果たす」と言うことで、要するに役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということを言われているのです。

つまり形ある物に価値があるのは、形ない物が存在し大きな役割を果たしているからなのです。

日本文化は「間」によって成立している文化

日本文化は「間」をとても大切に考える文化です。
日本文化でいう「間」とは、先に書いた「空間」あるいは「何もない部分」と言うことだけではなく、「呼吸」や「タイミング」と言うようなことにまで広くかかわっています。

たとえば漫才や落語は「間」がとても大切です。
それはどういう事かと言うと、漫才で有名な「饅頭怖い」を文字におこすとこうなります。

三吉: 人間誰でも怖いものってぇものがあるんだ。それは何故かってえと、生まれたときに胞衣<えな>を埋めるだろう。その埋めた場所の上を最初に横切ったものがあると、それが そいつの怖いものになるんだよ。

八五郎: 何だいそのエナってのは?

三吉: お前が生まれてきたときにくっつけてきたへその緒よ。それで、八ちゃんは何が怖えぇ?

八五郎: おれは毛虫が怖えぇ。

三吉: じゃ、お前ぇの胞衣を埋めた上を最初に毛虫が横切ったんだよ。半ちゃんは何が怖えぇ?

半介: 俺はオケラだ。 オケラのやつはゴミだめをほじくるってぇと出てきやがって、兜みてぇなものを頭にくっつけて、「どのくらい大きい?」って言うと、「このくらいッ!!」って手をいっぱいひろげやがるんだ。あれが気にくわねぇ。俺はオケラが大嫌えだ。三ちゃんは何が怖えぇ?

~中略~

正一: そうかい、それまで聞いてくれるかい? それなら言うよ。俺はねぇ、饅頭が怖いんだ!!。
俺は本当はねぇ、情けねぇ人間なんだ。みんなが好きな饅頭がこわくて、見ただけで心の臓が震えだすんだよ。そのままいるときっと死んでしまうと思うんだ。だから、饅頭屋の前を通るときなんど足がすくんでしまって歩けなくなるから、どんなに遠回りでもそこを避けて歩いているんだよ。江戸は近頃馬鹿に饅頭屋が増えたので、俺は困っているんだ。ああ、こうやって饅頭のことを思い出したら、もうだめだ、立っていられねぇ。そこへ寝かしておくれよ。

(八五郎、三吉と半介の三人は、正一が寝ている間に山ほど饅頭を買ってきてそれを枕元に置いて、正一が起きたらそれを見て恐怖のあまり死んでしまうようにしようと衆議一決。)

三人: かまうもんか、あの野郎が死んだって、殺したのは饅頭であって俺たちじゃねぇ。

三吉: おい、奥でごそごそいい出したぜ。野郎起きたんじゃねぇかい。障子に穴を開けてそっと見てみようじゃねえかい。

八五郎: おい、大変だ!! 野郎泣きながら、饅頭を食ってるぜ!! 饅頭怖いってのは嘘じゃぁないかい??。

(障子を開けて)

三人: おい、正ちゃんよぉ!! お前、俺たちに饅頭が怖いって嘘をついたなぁ。太てぇ野郎だ。本当は何が怖いんだい???。

正一: ごめんごめん、いま饅頭が喉につっけぇて苦しいんだ。本当は、俺は「一盃のお茶」が怖えぇんだ。

って話です。

これ読んで、声出して笑いましたか?
面白いなあと思っても声を出して大笑いするほどではないですよね。
すなわち落語は、噺家さんが話をされるときの「間」があるからこそ、声を出して笑ってしまうほど面白くなるのです。

よく関西人が集まって話しをしていると漫才みたいだって言われますが、これも話しの内容がおかしいというよりも「間」の取り方で面白く聞こえている要素が多分にあります。

歌舞伎の「見得(みえ)を切る」と言う事もそうですね。
一瞬動きを留めたりすることによって、見得という大きなポイントを作り上げる事が出来ています。

いけばなもそうです。

作品の中で空間をいかに生かすかという考え方、その作品を飾る空間(部屋など)をどう活かすかという考え方がその根底にあるから、いけばなは世界に例を見ない発展を遂げ、唯一無二の存在となっているのです。

目に見える事だけではなく、目に見えない事にも意識を向ける大切さ

人は目に映る事に意識を囚われ、その事に注視しがちです。
しかし実は、目に見えない「無」があるからこそ、目に見えるものが生きているという事なのです。

会社でも、華々しく営業成績を上げる事が出来ている人も、その後ろで支えてくださっている人たちがいるからこそ活躍できるのです。
お家でも、掃除や洗濯や食事と言う家庭を支えてくださる方があるから、外に出掛けて心おきなく仕事をする事が出来るのです。

そんな事を改めて考える機会になった今日のお稽古でした。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。