目に見えないという事は何もないという事ではなく、目に見えないものにこそ大きな役割があるという事
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
先日の訪中時に、光風流の中国支部の先生と話をしていて、「空間」という事についてお話をする機会がありました。
特にいけばなをはじめとする日本文化はこの「空間」、すなわち「間」によって成立しているという事について話をしたので、今日は「空間」という事についてブログを書きたいと思います。
目に見えるから存在していて、目に見えないものは存在していないという事ではない
「空間」とはすなわち「間」という事で、「空間」や「間」を言い換えると「何もない部分」と言う事になります。そして ”いけばな” はこの空間を大切に考え、空間を生かしながら作品を作り上げています。
人はついつい「有る」と「無い」と言うように物事を考えがえてしまいます。つまり ”いけばな” でいうと目に見えている部分だけで作品を捉え判断してしまうという事です。これは目に見える物を「有る」と考え、目に見えないものは「無い」と考え、「無い」=価値がないと捉えてしまっているという事に他ならないのです。
がしかし実は、この世の中には「無い」すなわち「間」や「空間」という目には見えない「何もない部分」が有るからこそ成立し機能しているのです。
例えば人は空気が無ければ生きてゆけません。空気は目には見えません。もちろん匂いも味もありません。あるいは、人は陽の光が無ければ生きてゆけません。陽がさせば明るくはなりますが、陽の光自体は見えません。
中華の春秋戦国時代の哲学者、老子の言葉にも「無用の用」と言う言葉が有ります。その中に「粘土をこねて作った器に何もない空間があるから、器としての役割を果たす。建物を立てて部屋の中に何もない空間があるから、部屋としての役割を果たす」と書かれており、要するに役に立たないと思われているものが、実際は大きな役割を果たしているということを言われているのです。
つまり形ある物に価値があるのは、形ない物が存在し大きな役割を果たしているからに他ならないのです。
「間」の重要性は、日常会話にも当てはまります
日本文化は「間」をとても大切に考える文化です。日本文化でいう「間」とは、先に書いた「空間」あるいは「何もない部分」と言うことだけではなく、「呼吸」や「タイミング」と言うようなことにまで広くかかわっています。
たとえば掛け軸や襖絵などのような墨絵は、何も書かれていない部分で空間の広がりを感じたり水面の広がりを感じたりします。私たちが日常の中で話す言葉も、言葉と言葉の「間」や会話をしているときの「間」があるからこそ、重要さを感じたり面白く感じたりするのです。
ここからは、いけばなで「間」の話をしてもわかりにくいでしょうから、「間」をとても大切にする落語で考えるとわかりやすいと思いますので、例に挙げて考えてみたいと思います。
皆さん一度は聞いたことがある漫才で有名な「饅頭怖い」を文字におこすとこうなります。
三吉: 人間誰でも怖いものってぇものがあるんだ。それは何故かってえと、生まれたときに胞衣(えな)を埋めるだろう。その埋めた場所の上を最初に横切ったものがあると、それが そいつの怖いものになるんだよ。
八五郎: 何だいそのエナってのは?
三吉: お前が生まれてきたときにくっつけてきたへその緒よ。それで、八ちゃんは何が怖えぇ?
八五郎: おれは毛虫が怖えぇ。
三吉: じゃ、お前ぇの胞衣を埋めた上を最初に毛虫が横切ったんだよ。半ちゃんは何が怖えぇ?
半介: 俺はオケラだ。 オケラのやつはゴミだめをほじくるってぇと出てきやがって、兜みてぇなものを頭にくっつけて、「どのくらい大きい?」って言うと、「このくらいッ!!」って手をいっぱいひろげやがるんだ。あれが気にくわねぇ。俺はオケラが大嫌えだ。三ちゃんは何が怖えぇ?
~中略~
正一: そうかい、それまで聞いてくれるかい? それなら言うよ。俺はねぇ、饅頭が怖いんだ!!。
俺は本当はねぇ、情けねぇ人間なんだ。みんなが好きな饅頭がこわくて、見ただけで心の臓が震えだすんだよ。そのままいるときっと死んでしまうと思うんだ。だから、饅頭屋の前を通るときなんど足がすくんでしまって歩けなくなるから、どんなに遠回りでもそこを避けて歩いているんだよ。江戸は近頃馬鹿に饅頭屋が増えたので、俺は困っているんだ。ああ、こうやって饅頭のことを思い出したら、もうだめだ、立っていられねぇ。そこへ寝かしておくれよ。(八五郎、三吉と半介の三人は、正一が寝ている間に山ほど饅頭を買ってきてそれを枕元に置いて、正一が起きたらそれを見て恐怖のあまり死んでしまうようにしようと衆議一決。)
三人: かまうもんか、あの野郎が死んだって、殺したのは饅頭であって俺たちじゃねぇ。
三吉: おい、奥でごそごそいい出したぜ。野郎起きたんじゃねぇかい。障子に穴を開けてそっと見てみようじゃねえかい。
八五郎: おい、大変だ!! 野郎泣きながら、饅頭を食ってるぜ!! 饅頭怖いってのは嘘じゃぁないかい??。
(障子を開けて)
三人: おい、正ちゃんよぉ!! お前、俺たちに饅頭が怖いって嘘をついたなぁ。太てぇ野郎だ。本当は何が怖いんだい???。
正一: ごめんごめん、いま饅頭が喉につっけぇて苦しいんだ。本当は、俺は「一盃のお茶」が怖えぇんだ。
って話です。
これ読んで、声出して笑いましたか?面白いなあと思っても声を出して大笑いするほどではないですよね。
すなわち落語は、噺家さんが話をされるときの「間」があるからこそ、声を出して笑ってしまうほど面白くなるのです。
よく関西人が集まって話しをしていると漫才みたいだって言われますが、これも話しの内容がおかしいというよりも「間」の取り方で面白く聞こえている要素が多分にあります。
歌舞伎の「見得(みえ)を切る」と言う事もそうですね。一瞬動きを留めたりすることによって、見得という大きなポイントを作り上げる事が出来ています。
いけばなも正に同じことを言うことが出来ます。作品の中で空間をいかに生かすかという考え方、その作品を飾る空間(部屋など)をどう活かすかという考え方がその根底にあるから、いけばなは世界に例を見ない発展を遂げ、唯一無二の存在となっているのです。
目に見える事だけではなく、目に見えない事にも意識を向ける大切さ
人は目に映る事に意識を囚われ、その事に注視しがちです。しかし実は、目に見えないモノがあるからこそ、目に見えるものが生きているという事なのです。
会社でも、華々しく営業成績を上げる事が出来ている人も、その後ろで支えてくださっている人たちがいるからこそ活躍できるのです。お家でも、掃除や洗濯や食事と言う家庭を支えてくださる存在がいてくれるから、外に出掛けて心おきなく仕事をする事が出来るのです。
そんな事を改めて考える機会になった出張でした。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。