「原爆の日」に毎年感じる違和感があります。それは 、なぜ核兵器を使われた日本が毎年反省をしないといけないのかということです
目次
こんにちは、内藤正風です。
今年もこの日がやってきました。明日は「原爆の日」ですね。
明日は「原爆の日」です。
76年前の8月6日、アメリカ軍が世界で初めて広島で核兵器を実戦で使用しました。
毎年ニュースなどで取り上げられていますので、皆さん目にし耳にされている事と思います。
わたしは戦後世代ですので、原爆投下がされた時の事はリアルタイムでは知らないです。
しかし、学校で習ったり原爆の日の特別番組などでこれまでに見たりして、どういう事が起こったのかということは理解しています。
ちなみにWikipedia先生によると
広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 – 16万6千人が被爆から2 – 4か月以内に死亡したとされる。
と書かれています。
毎年この日には、黙祷を捧げるまではしなくとも、亡くなられた方々のご冥福と安寧を心の中で祈っています。
黙祷は強要するものではない
東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会は、6日の広島の「原爆の日」に選手や関係者に黙禱(もくとう)を呼びかけるなどの対応はしないという決定を受け、広島県内の関係者には失望の声が広がったというニュースを目にしました。
広島市などから国際オリンピック委員会に対して、原爆の日にあたる6日に黙禱を。。。という要請をしたそうなのですが聞き入れてもらうことが出来なかったという事だそうですが、良い悪いは別にして、これが世界的な原爆投下に対する認識だし、これが日本の原爆投下に対する意識なんだなぁということを改めて目にする機会になりました。
ま、いずれにしても、そもそも黙祷は強要するものではありませんので、その意識がある人が自ら行えば良いことだとは思います。
「原爆の日」に毎年感じる ”疑問” と ”違和感”
私は毎年8月6日の「原爆の日」に感じる疑問と違和感があります。
それはコレです↓↓↓
慰霊碑にある石板「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」
「安らかに眠ってください」と言うのはその通りです。
衷心よりそう思います。
しかしその後の文言はどういう事なんでしょうか。
「過ちは繰返しませぬから」
「過ち」とは何か
ここで言う”過ち”とは何の事を指しているのでしょうか。日本が戦争という手段で物事を解決しようとしたことでしょうか。それとも核兵器を使ったことでしょうか。
この石板があるのは「原爆死没者慰霊碑」です。ということは、この石板に書かれている文字は原爆で亡くなられた皆さんに向けての言葉ですよね。そしてここで意味する”過ち”とは核兵器を使ったことではないかと思うのです。
使ったのはアメリカです。日本ではありません。
ではここに書かれている「過ちは繰返しませぬから」と言うのは、だれがどんな過ちを繰り返さないと言うことなのでしょうか。そしてなぜこの文言がここに書かれているのでしょうか。
いつもこの部分で疑問を感じます。
そしてそれとともに大きな違和感を感じます。
なぜ、核兵器を使われて反省をしないといけないのか
この石板の文言だと、「誰が」「なにを」の部分がごっそり抜けているので、核兵器を使った反省を使われた側の日本がしているように私は感じます。
これって、「いじめられている子にも問題がある」って言っているのと同じ論理でおかしくないですか?
それとも、日本が大東亜戦争(私は太平洋戦争と言う名は後付けのものだと思っていますので、ここでは大東亜戦争と書きます)に突入し、敗戦したから負けた側は、戦勝国の無理難題を聞き、白いものを黒と言われたら、黒って言わないといけないって事なんでしょうか?
って事は、ココに書かれている「過ちは繰返しませぬから」と言うのは、核兵器を使われるような事をした日本が悪いのですから、2度と使われない様に反省しますって意味なのでしょうか。
世界中を見ても、言葉で「誰が」「何を」を明確にしないで通用するのは日本だけだと思う
核兵器を使われた側が、核兵器を使われたことを反省する。。。
おかしくないですか。
その論理で言うと、北朝鮮がミサイルに核兵器を搭載してアメリカに万一打ち込んだら、アメリカは「核兵器を使われるような事をした私達が悪いのです」って反省するのですか?
そんなこと絶対にありえないですよね。
もし仮にミサイルなんて撃ち込まれた日には、アメリカは全力で北朝鮮を攻撃して何なら国自体を崩壊というか、この世から消し去ってしまうぐらいの事をしてしまうんじゃないでしょうか。
核兵器の使用や原爆投下という過ちは繰り返してはいけないと思います。
だからこそなぜ「過ちは繰り返しませぬから」という「誰が」「何を」が抜けている日本語による文言が刻まれている石板が「原爆死没者慰霊碑」にあるのか、私には意味が分かりません。
外国の人は「誰が」とか「何を」とかは絶対に重要視します。少なくとも私が知る限りでは。なのに世界的に注目を集める施設でそのことをあえてあやふやにしているのはなぜなのか。。。
ええ、このことについては考えれば考えるほど違和感しか生まれてきません。
そんな事を今年も思った8月5日です。
追記
この記事をアップしたのちに「広島市のトップページ 「原爆死没者慰霊碑」で検索してみてください。一寸違う意味のことがはっきりと書かれています。全世界の人々が、戦争と言う愚かな行為を許さないという意味のようですよ。」とご意見をいただきました。
ありがとうございます。
私のBlogをきっかけにして興味を持っていただくことが出来て幸せです。
確かに私の言葉足らずの文章でした。
私この件に関しては「原爆死没者慰霊碑」並びに「広島平和記念碑」(原爆ドーム)に何度か訪れて、自分なりに回答を探しに行っています。
しかしながらご指摘のように説明版はありますが、ご存じのように碑文そのもの自体は何も変わっていません。
いくら説明版にはこの碑文が「すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」という事だと書かれていても、説明や解釈なんて言うものは、その時代時代によっていくらでも付け加えたり変えたりできるものです。
それは政治が常にそうなのは皆様よくご存じのとおりです。
だからこそ「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」だけでは、正しくメッセージを後世に伝えるということにはならないのです。
それはなぜなら「誰が」「何を」が抜けているからです。
説明文の通りの意味があるのならば、せめて「安らかに眠ってください 世界で戦争という過ちは繰返しませぬから」くらいの文字はないと、この碑文の意味を今後いくらでも捻じ曲げて伝えることが出来るようになってしまうと思います。
とはいえ、こんなことに殊更に目くじらを立てなくても、日本人の大多数はあしたのご飯を食べることが出来るので、大した問題ではないんでしょうけれどね。
(笑)
内藤正風PROFILE
-
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。
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