”こうでならなければならない” という思い込みは、自分自身の視野を狭くし思考を停止させてしまいます
ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
今日は、いけばなの家元が作る門松の配達にお出掛けして、今年最後の出掛けるお仕事を行ないました。とはいえ、これで仕事納めでは全然ありません。ま、毎年のこととはいえ、色〜んな事が全く納まっていないのですから。(笑)
そんな中、今日お伺いさせて頂いてお話をさせて頂いている中で、「そもそも ”こうでなければならない” なんて存在しないんだよなぁ」って改めて思ったので、今日はそんなことについてブログを書きたいと思います。
"こうでなければならない"なんて存在しない
お正月のお花というと「こうしなければならない」、門松と言えば「こうしなければならない」みたいに、それぞれの方が連想される形があると思います。たしかにそれらは間違いではありませんが、それだけが絶対的な正解でもありません。
大体物事って、本質は物凄く簡単な事だと思うのです。それが歴史を積み重ね時間が経ってゆく中で、だんだん小難しくなっていったり、華美になっている場合が多いように私は思っています。
なぜならそれは、門松一つとってもお正月に飾るお花についても、そもそも神の依り代としての役割だけでいえば、松を生けたり飾ったりしていればそれでいいのですから。
なのにそれを、今までこうしてきていたからという盲目的な前例至上主義になったり、価値を持たそうとして小難しくしたり華美にしたりするから段々本質が分かり難くなってしまったりするのだと思います。
そんなことを見ていると、「これでなければならない」って言う思考は危険だと思うのです。
” 100 か 0 ” か、"白"か"黒"か、以外が有って良い
「お正月のお花は、豪華でなければならない。」なんて思わなくていいのです。あるいは、ご家族が亡くなられて1年以内だから、お正月の一連の行為はしてはいけない。」なんて言うのも、思わなくていいのです。
逆のパターンで言いますと、ご家族が亡くなって1年経っていないので松は生けてはいけないなんて、誰がそんな事決めたのですか?そんなこと言っていたら、仏壇のお花を年末に買いに行ったら、松の小枝が入っていますよね。
あるいは、あなたはご家族が亡くなられた時に四十九日の間しっかりと喪に服されましたか?しっかりと喪に服するという事は、その期間中は肉や魚を一切食べないという事でもあります。そんな事ほとんどの方がなさっておられないと思います。
という事は、都合のいいところだけそんな事を言っているだけなのです。良いか悪いか、するかしないかみたいな100か0かの考え方をしなくていいのです。
出来ることを考えていけばいい
「こうでなければならない」とか、「100 か 0 か、白か黒か」なんて思うから、面白くなくなっちゃうし、面倒くさくなっちゃうのです。思考が停止しちゃうのです。
白や黒だけではなく、限りなく白に近いグレーもオッケーなんです。限りなく黒に近いグレーもオッケーなんです。
こうでなければならないと思うのではなく、いま何が出来るのかと言う、出来ることを考えればいいのです。
大きなことでなくていいのです。どんなに小さくてもいいんです。いま出来ることを積み重ねていけば、可能性や楽しみはどんどん広がっていくのですから。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。





