「枯れ木も山の賑わい」という言葉がありますが、いけばな的思考でこの言葉を見ると一般的な意味とは全く違う解釈になります

こんにちは、内藤正風です。

今日のブログでは、昨日のお稽古を行なっている時にお話をさせていただいた事について書きたいと思います。

「枯れ木も山の賑わい」って言葉があります

「枯れ木も山の賑わい」って言葉があります。
意味は、「広辞苑」第6版(平成20年 岩波出版)によると ”枯木も山の風致を添えるものである。転じて,つまらない物も数に加えておけば無いよりはましであることのたとえ。” となっており、「大辞林」第3版(平成18年 三省堂)によると、 ”枯れ木でも山に趣を添える。つまらぬものでも無いよりはましであるという意。” と書かれています。

しかしこれらの意味って、いけばな人としては「大いに異を唱えたい」と思うのです。
なぜなら、私たちは枯れ木も素材として作品に用いますが、無いよりはましという考え方で使っては絶対におらず、そこに無くてはならない存在として使っているからです。

枯れ木にも価値あるものとそうでないものがあります

枯れ木と一口に言っても、千差万別色々なものがあります。そんな中で私たちがいけばなに用いているものは、趣があったり魅力があったりするものを選んで用いています。
ここでいう趣や魅力というのはすなわち、枝ぶりの魅力であったり、朽ち果てた姿の魅力であって、枯れている木ならば何でも良いというものではありません。

元々その枝自体に魅力が備わっていた枝が枯れることによって、皮がむけたり木の内部の固い部分だけが残ったりすることで独特の風合いを醸し出しているからこそ、枯れ木としての魅力が生まれているのです。

年寄りになったから、枯れ木も山の賑わいと考えるのは大きな間違いです

年配の方が、自分の事やお年寄りの事をさして「枯れ木も山の賑わい」と例えられたりするのを耳にしますが、少なくともいけばなをしている人にはそういう風には言ってもらいたくないと思うのです。だって、枯れ木にも価値ある枯れ木とそうではないものがあるのですから。

私たちがいけばな作品に使う枯れ木的に言うならば、その人自体が魅力的だった方が年を重ねて高齢になられたら、それは「他にはない唯一無二の魅力」をまとわれているのです。そして特に何もなく年齢だけを重ねられた方は魅力のカケラもなく、今風に言うなれば「老害」と言われても仕方のない状態だといわざるをえないかもしれません。

なので高齢になったからと言って、おしなべて「枯れ木も山の賑わい」なんて、いけばな人には言ってほしくないですし、そういう考え方もしてもらいたくないと私は思うのです。

魅力ある枯れ木になる

いけばな作品に使いたいと思う枯れ木と、これはゴミだなと思う枯れ木、同じ枯れ木であってもその価値や存在意義は全く違っています。
そんな枯れ木から私達いけばな人は、大いなる気付きと学びをもらっているのではないかと思うのです。

ゴミだと思われる枯れ木と唯一無二の魅力がある枯れ木、私は唯一無二の魅力がある枯れ木になる事が出来る様にもがいてゆきたいと思います。
そして光風流でいけばなを学ばれている皆さんにも、そうなっていただければ嬉しいなぁと思います。

 

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。