「学び」や「刺激」は、良き師や良き友と一緒に居る時間が沢山あるほど多く得る事が出来る
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ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
先日、友人と一緒に予約の取れない京都の焼き鳥屋さんに行ってきました。行き帰りの道中、そして食事をしながらの時間、色々な話をしたり聞いたりして、ものすごく濃い時間を過ごすことが出来ました。
良い師と友が、人生を楽しく豊かにしてくれる
私は、人生は「良い師」と「良い友」に恵まれるかどうかで全く変わると思っています。そしてこの良い師や良い友に共通する要素は、「学びと刺激と苦言を気づかせてくれる存在」なんだろうなと思います。
もちろん「師」と「友」では立ち位置が全く違いますので、学びや刺激や苦言と一言でいっても、その関わりやアプローチはまるっきり違ってきます。
ただその中で確実に言えるのは、「学び」や「刺激」や「苦言」は、殊更に与えてもらったり教えてもらうものではなく、一緒に居る時間に比例して自然に気付くことが出来るものだと私は思っています。
師や友からの「学び」とは
「学び」というのは大きく分けると ”技術、知識、思考” の三つの要素になるのではないかと思います。そんな中で、”技術や知識” は、確かに教えてもらって学ぶ事が出来ます。
しかし人から教わる事が出来るような事柄はレベルの低い事であって、本当に本質的な事柄は見て感じて学ぶしかないのが実情だと思います。
そして”思考” は、教わって学ぶ事がそもそも出来るものではありません。
同じ空間や時間を共有すること、すなわち、師や友と一緒に行動をしたり、色んな話をしたりする事を通じて、考え方や行動などの言うなれば処世を間近に見たり聞いたり感じたりするしか学べる方法は無いと思うのです。
師や友から得る事が出来る「刺激」とは
「刺激」とは自分が理想とする人の日常から、その空気感や思考や行動などを感じる事を通じて、自分の未熟さを知ったり、励みやヤル気を得る事だと思います。
要するに、自分の上にはまだまだ上が有るという事を知ったり、相手が頑張っている姿に刺激されたり、もっともっとやる事があると触発されたりする存在かどうかと言う事です。
もし相手から何の刺激も無いということなら、その相手は自分を成長させてくれる存在ではないのかもしれません。
苦言は言ってもらうものではなく、気づかせてもらえるもの
そして「苦言」について私は、誰かが耳の痛い事を言ってくれるというものではなく、殊更に何かを言われたわけではないけれど、「うわっ!」って気づく瞬間を与えてくれる人こそが、自分にとってのメンターに他ならないと思うのです。
だって耳の痛い事をいくら言ってもらっても、そこから気づきや学びに結び付かなければ、何の意味もないのですから。
そしてそういう存在は、えてして「師」ではなく「友」である事の方が、多いのではないかとも思うのです。
「学び」も「刺激」も、師や友と一緒に居る時間が沢山あるほど、多く得る事が出来る
どうでしょうか。このように考えると、「学び」も「刺激」も「苦言」も、良い師や良い友と一緒に居る時間が沢山あるほど、多く得る事が出来ると思いませんか。
もちろんこの時の師や友は、良い師でなければいけませんし良い友でなければなりません。誰でもいいから傍にいればよいというものでもありません。
孔子の論語の中に「益者三友、損者三友」という件(くだり)があります。
これは自分の手本となる三種類の友達と、手本にならない三種類の友達と言う事について書かれているものです。
孔子も論語の中で、良い師や良い友達の大切さと言う事について度々触れているように、昔から「師」と「友」は人生を豊かにする存在として考えられていたのだと思います。
そんな事を、友人と過ごした時間から思う機会になりました。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。





