文化はゆとりのある人のモノの様に思われがちですが、実は生死ぎりぎりの状態でも文化は不可欠であり、その意味において「文化は人間らしく生きるために不可欠な栄養」なのです
こんばんは、内藤正風です。
今日は光風流の支部役員をしてくださっている方のご主人がお亡くなりになられたので、お通夜に伺ってきました。
その帰りの車中でふと思った、「文化と人との関係」という事について書きたいと思います。
食うに困ったら「文化」どころではない
人が無くなったら、宗教宗派に関わらずお花を手向けますが、これも1つの文化なのは言うまでもありません。
しかし日常の中で「文化」と言うと、お花を生ける、絵画を愛でる、和歌を詠む、書に親しむ、日舞や洋舞など踊る、名所旧跡を巡るなどをはじめとして、まだまだ沢山のモノがありますが、その全てがお遊びのように捉えられてしまうことが多いのも事実だと思います。
確かに、今日寝る場所が無いのに美術館に行って絵を見ている場合ではありません。今日の晩御飯が無いのにダンスを踊っている場合ではありません。。着る服が無くて素っ裸なのにお花を生けている場合ではありません。。。
仮に衣食住がそろっていても、会社をリストラされたのに名所旧跡を巡っている場合でもありませんよね。
その意味では、衣食住が足りて初めて文化に目が向くようになるのは事実だと思います。
「文化」は、ゆとりのある人だけのものではない
では文化というのは、ある程度ゆとりのある方だけのモノなのでしょうか。。。
ここ良く勘違いされがちなのですが、そうではないのです。
実は生死ぎりぎりのところに追い込まれると、文化の助けが必ず必要になってくるのです。
たとえば最初に書きました葬儀ですが、大切な人が亡くなった時に花を手向けるという行為は、亡くなった方に哀悼の誠を捧げているのと共に悲しみに暮れている人の心を癒すための存在でもあるのです。
他にも、天災で被災された方が、住む所や仕事、そして家族も失い悲嘆に暮れていたり、仮設住宅で「不」にまみれた生活でギリギリに追い込まれたりしている時に、いけばなや絵や音楽に癒されると共に力をもらったというお話もあります。
そういうことを見ていると、生死ぎりぎりに追い込まれた状態においても、文化は必要とされるという事がお分かりいただけると思います。
「文化」は人間らしく生きるための栄養なのです
衣食住足りて文化。そして、生死のギリギリでも文化。
こんな風にして考えると見えてくるのは、「文化とは人間らしく生きるための栄養である」という事です。
衣食住に困らない状態になり、そこから人としてのレベルアップや精神的な豊かさを求めてゆくには、花を愛でたり、絵画を愛でたり、舞台を見たりという事を積み重ねながら内面を豊かにしてゆくことが不可欠になってきます。
そして災害などでご遺体が身の回りに放置されていたり、自分の命が1分後にどうなるかわからないというような状況に追い込まれてしまったときに、心が壊れてしまったりしない様に人間としての最低限の尊厳を守るためのものが必要になってきます。
これらどちらにおいても「文化」が大きな役割を果たしてくれるのです。
人は畜生ではありません。眠いから寝る、空腹になったからとにかく食べる、腹が立つから怒ったりわめいたりする、という様に本能のままに行動していたのでは、人間も畜生も変わりが無くなってしまいます。
(ま、最近そういう輩が多いのは、ニュースなどをにぎわしていて残念なことだと思いますけどね。。。)
人間とは何か、人とはどうあるべきなのか、その根本にあるのは「文化」だと私は思っています。
内藤正風PROFILE
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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。