悪気が無ければ許されるのは小さな子供だけで、大人の悪気の無い言動は一番タチが悪いと思うのです

ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。

先日、役員の先生とお話をしていて「悪気がないので。。」という話になりました。一般的にこの言葉が用いられるときには、悪気が無いから仕方がないとか、悪気が無いから許してあげてとか、そんなニュアンスで使われる場合が多いと思うのですが、私は悪気の無い言動が一番タチが悪いし救いようがないと思っています

「悪気が無い」という事には2種類ある

私は「悪気が無い」言動の全てがタチが悪いし救いようがないとは思っていません。なぜならば「悪気が無い」という言動には、大きく分けると2種類があると思っているからです。
その一つ目は小さな子供の「悪気が無い」言動です。そしてもう一つは大人の「悪気が無い」言動で、「悪気が無い」言動であっても、この両者は全く違う意味を持つからです。

小さな子どもの「悪気が無い」言動は、学びの途中であるという事

たとえば2歳の子供が、テーブルの上に置いていたお金を勝手に持って行ってしまったとします。
これって「自分のものではないものを、勝手に持って行ったらいけないですよ」という事をまだ学ぶ前だったので、してしまった行動ですよね。なのでこの行動は「悪気が無かったんだから仕方ない」って許されるべき言動だと思うのです。

だってこういうことを通じて、1つずつルールを学びながらこれから成長してゆくのですから。

大人の「悪気が無い」は、違うルールで行動している結果なので、言っても理解できない

一方、大人がテーブルの上に置かれているお金を、勝手に持って行ってしまったとしましょう。
これ「悪気が無かった」っていう事は、自分のもので無いという事が分かっていても、勝手に持って行ってしまって良いという価値観で生きている人だってことですよね。こういう人に「なぜ人のお金を勝手にとったのですか」って叱っても、なぜ叱られているかがそもそも理解できないでしょうし、仮にその時には叱られたくないので分かったふりを神妙にしていても、理解が無ければ結局は同じことを繰り返すだけになります。

これって一番タチが悪くないですか。

だって極端な例かもしれませんが、人のお金を勝手に持って行ってはいけないという事を分かっている上で持って行った人は、自分が悪い事をしたという認識がある分だけ、反省を促すことも出来ますし心を入れ替えさせることが出来る可能性があるでしょうが、人のものは自分のモノという価値観の人に反省を促すこと自体が出来ないのですから。

悪気が無いのが一番タチが悪い

私は悪気がないという風にいわれる言動の中でも、”自分が優位に立つために、悪気が無く人の頭を押さえつける様な言動” をするって、「悪気が無いから仕方がない」で許されるものではないと思います。
というか、悪気が無いぶん余計にタチが悪いと私は思いますし、なんなら人生60年も70年も重ねてきたうえでこういう事をされる人は今さら変わりようもないと思うのです。

「悪気が無い」というと免罪符の様になってしまっている事が世の中には多々あると思うのですが、私自身は「大人の悪気が無い言動が一番タチが悪い」と思うのです。
という事で、今日はそんな自戒を込めたブログを書きました。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。