追善花展と法要を開催して思う、先生からの教えは誰かに伝えてこそはじめて生きるという事

ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。

先週末に開催した「追善いけばな展」と「追善法要」を通じて思ったり感じたりしたことを、先日からブログで取り上げていますが、今日は、「"教え"は伝えてこそはじめて生きる」という事について取り上げたいと思います。

メンバーは年々変わってゆきます

追善いけばな展では、家元門葉の皆様に作品展示をお願いしました。そして追善法要のご案内は、光風流本部役員と支部三役の先生方にご案内をお届けさせて頂きました。
ちなみにこの出瓶者やご案内させて頂いた皆様ですが、実は毎回少しずつ変わってきています。これ私は、当然のことだと思っています。理由は簡単です。人は1年に1歳ずつ歳をとってゆく生き物だからです。

古くからいけばなに携われている皆様は、その年数が長ければ長いほど当然ご高齢になってゆかれます。またその一方で、伴い若い世代のかたが新たに加わってくださるようにもなるのですから、徐々に徐々に顔ぶれが変化してゆくのは当然のことだと思うのです。
そしてこの顔ぶれの変化がもし起こっていなければ、どこかで途絶えてしまうということに他ならないのです。

教えは人から人に伝わってゆく

「教え」の本質的な部分は、人から人に伝わり継承されなければ後世に伝わる事が出来なくなります。なぜなら教えとは単に記録し後世に残して行けば良いものではなく、人々の日々の生活やお仕事に役立つ存在でなければならず、そのためにはその場その場に応じた臨機応変な対応と活用が不可欠だからです。

つまり核となる本質は正しく伝承しながら、時代の変化や世の中の移り変わり、人々の価値観の変化などに合わせて変えるべきは変え、変えてはならないことは大切にしながら伝えてゆかなければ、役立つ教えにはならないのです。

わかりやすくいうならば、「先生から生徒さんに。そして教えを受けた生徒さんが先生となって生徒さんに伝える。」を繰り返してゆくしかないということなのです。

先生から学んだ教えは、伝えてこそ生きる

学びというのは、教えを受けそして習得するというステップを踏みます。そしてここで大切なのは、習得にはその時時に合わせて生かすための現場での数多くの経験が不可欠になるという事です。

教えを受けてマニュアル化できるようなものは極めて程度の低いものであり、その意味でいうならば、教えの本質は文字に残す事が出来ない部分にこそあると私は思っています。
そしてだからこそ同じ教えを沢山の人が引継ぎ、後世に伝えてゆかなければならないのです。
したがって「自分が学んだものなんだから自分さえ知っていれば良い」という考え方は極めて利己的な思考であり、良い教えを伝え広めてゆこうとされている教えを乞うた先生の意思に叶うものでないという事は、ご理解いただけると思います。

今回の追善いけばな展と追善法要の開催を通じて、「どう学ぶか」も大切ですが、「どう伝えるか」はもっと重要だということを改めて考える機会になりました。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。