地元の商工会議所青年部様で講演を行いながら思った、日本の特異性と日本人の定義について
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ごきげんよう、こんにちは、こんばんは、内藤正風です。
昨日は、地元の商工会議所青年部様からお声がけをいただき、講演といけばな体験を行なわさせて頂きました。
そんな中、講演で話をさせて頂きながら、日本が持つ特異性と日本人の定義という事について、「やっぱりそうだよなあ」と自分なりに思うところがあったので、今日はそんなことについて、徒然にブログを書きたいと思います。
人類の中で日本人だけが特異だと思う理由
私は人類の中で、日本人だけが特異な存在だと思っています。それは優れているとか劣っているという様なレベルの話ではなく、その根幹となる思考に日本人だけのものがあると思うからです。
そしてその思考とは何かというと、「八百万」です。
「八百万」だけでは分かり難いかと思いますのでもう少し言い方を変えますと、「全てのものに精霊が宿る」という考え方です。
とここまで話をすると、「いや全てのものに精霊が宿るという考え方は、バリ島等にもあるやんか」とおっしゃられる方もおられると思います。
確かにそうなのですが、日本の八百万信仰はかなり特殊で、この話をするときには日本の国造りにおいてその根幹をなしている「神道」を無視しては通ることが出来ません。
「神道」とは日本においては、神社に代表されるように祭祀と切っても切り離せないものになります。がしかし、一般的な宗教という様な小さな枠組みで納めることが出来ない存在でもあります。それは開祖や教祖が居たり経典や教義が存在したりしないというところです。
その様な日本の神道の特異性を考えるにおいて、いちばん分かりやすいのは「仏教」だと思います。日本の仏教は諸外国の仏教と決定的に違う点があります。それは「神仏習合」です。日本の仏教は、全てのものに精霊が宿るという考えの上に成り立っています。つまり日本の仏教そのものが「神道」と結びついたうえで成立しているのです。つまりここから見えてくるのは、全てのものに精霊が宿るという考え方を元にした「神道」は、宗教というような小さな枠組みで縛ることが出来るようなものではなく、日本人の心や自然観というような、日本人が大切にしなければならない教えにまで関わっている存在だという事なのです。
国際的に信仰は、その人の価値観や思考を推し量るものです
なのでよく諸外国の方々は、相手の信仰を気にしたり聞かれたりします。しかし日本人はそういう事を気にする方は極めて少ないです。これこそが日本の特異性を如実に表しているものだと私は思うのです。
つまり地球上の人々は、その人の持つ信仰によって、その人の価値観や思考が決まると諸外国の皆さんは思っています。例えば、この人は、「右腕で盗みを働いたから右腕を切り落とす」という考え方なのか、「右の頬を打たれたら左の頬を出す」という考え方なのかという事です。
なので外国では誰かと出会った時に一番最初に相手の信仰を聞くという事が、お互いに不幸せを生み出さないために不可欠な作業になるのです。
ところが日本では、宗教感よりも根幹的な八百万信仰という価値観がその大元に存在しているので、その事がお互いに相手に対する信頼を担保している状態にあるという事なのです。
人もこの世の中の一員という考え方
さてそんな八百万信仰には、大きな特徴があります。それは人間も世の中の一部分であるという考え方です。つまり全てのものに精霊が宿るという事であり、全てをそのまま受け入れるという考え方になります。
諸外国のものの考え方は「人間主体主義」です。つまり人間がこの世で一番優れている存在であるという考え方です。したがって大雨で川の水かさが増して橋が流された時に、人間主体主義の考え方の場合、なぜ橋が流されたのかを考え、もっと大きく丈夫な橋を作ろうと考えます。つまり人間の力で自然をねじ伏せようと考えるのです。
しかし古来よりの日本での考え方では、大雨で橋が流されてしまった時には、まずその橋が流されたという事実をそのままマルっと受け入れ、その上で自然の中の一員として自然と共に生きていくためにはどうしたらよいかを考え、沈下橋や流れ橋を生み出すという思考や行動になるのです。
日本人は、求道者として歴史を積み重ねてきました
日本には古来より「道」という文字が付く文化があります。それは「華道」「茶道」「香道」「書道」です。
あっ、こういう事を話すと「剣道」や「柔道」を挙げられる方がありますが、剣道や柔道は明治以降に作り上げられたもので、日本古来のものではありません。江戸時代までは、剣道は剣術でした。柔道は柔術でした。つまり相手を殺すための術として歴史を積み重ねて来たものを、明治時代に人間形成に役立てるものとして生み出されたものになります。
その様な中で、この「道」というものが付く文化は、その技術や知識の習得を通じて自己成長や幸せな生き方を追求するものになります。
なのでその意味でいうと、この「道」が付く文化を行なう者は、「求道者」という事が出来るでしょうし、その意味でいうならば「神道」も「道」という文字がついている事からも求道の1つという捉え方をすることが出来るのではないかと思うのです。
日本人というのは国籍を表すものではなく、思想を表すものなのかもしれません
ここまで色々な事を書いてきましたが、最近の世を見ていると、日本人であっても八百万信仰に基づく考え方や行動を学ぶことが出来ていなかったり、そういう事を大切にしない方が増えてきているのも事実です。
私達が子供の頃には、お家で親から神話を読み聞かせしてもらったり、学校では「道徳」という時間があったりして、そういう事に触れる機会が沢山ありましたが、最近はそうでもないという事を聞いたりもします。
そんな中で思うのは、〇〇人という言い方がありますよね。アメリカ人とか中国人とかフランス人とか。この時の〇〇人というのは国籍を表現していますが、日本人というのは、単に国籍だけを表す言葉ではないなぁと私は感じるようになりました。
つまり「日本人」とは、日本古来からの八百万信仰に基づく価値観を有する人の事をさす言葉であって、日本国籍を有する人の事をさす表現ではないのではないのかもしれないという事です。
日本の古来からの考え方を大切にし、そして人として成長を求めてゆく事こそが、日本人として大切なのではないかと思います。
内藤正風PROFILE

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平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。




