広島に原爆が投下されてから78年目に「はだしのゲン」が教材から外されたと聞いて思う事

ごきげんよう、こんにちは、そしてこんばんは、内藤正風です。

今日は広島に原爆が投下された日です。今年で78年、もうすぐ80年になります。

大東亜戦争もそうですが、80年近くも経過するとその当時をリアルで体験している方も少なくなってしまい、強い思いもだんだん薄れてしまったり、強烈だった記憶も段々片隅に追いやられて行ってしまったりして、月日の経過は極めて残酷なものだと感じます。

今年から「はだしのゲン」が教材から外されました

皆さんは「はだしのゲン」という漫画はご存じでしょうか。この漫画は広島の原爆被害の事を描いた漫画で、作者自身の被爆体験を書かれたものになり、私と同世代の皆さんは、かなりの高確率で目にされたことが有ると思います。

この漫画は、広島市でこれまで「広島市立平和教育プログラム」の教材と使われていたのですが、今年から別の教材に変更されるようになったそうです。

そしてその理由が、描写が過激、時代背景がいまと違うので参考にならない、撤廃されても教育は成り立つ、怖くて子供の頃に読めなかった、等の声があるからだそうです。
。。。。。私にとってはこれら変更される理由の大半が、納得できるものではなく違和感を感じるものでしかありません。

事実は時に ”心を乱す” ものです

いま世の中は、都合の悪い物や刺激的なモノを排除する傾向が強いように感じています。しかし人が生きている限り、事実は心を乱すものだと私は思っています。怪我をすれば流血します。人が命を繋ぐためには野菜や果物、動物や鳥などの命を奪わなければなりません。そして戦争は悲惨なものなのです。
日本の戦後も、一口の食べ物のために命を奪われた人もあります。戦後の貧しさで餓死する人や売られてゆく人があったのも事実です。なのにその様子を、刺激的でないようにして伝えたり、今の時代に置き換えて伝えたりしても、まったく意味が無いと思うのです。
だって、戦争は悲惨なんです。私たちの想像を超えた悲惨さなのです。人が死ぬのです。身がちぎれて原形留めなくなるのです。敵につかまれば、手足を切られたりして転がされる事や、女性は凌辱される事、そして子供は売られたりするのです。原爆が使われるとどうなるのか、どんなに綺麗な表現を用いても事実は変わらないのです。

だからこそ悲惨な事実は悲惨な事実として、たとえどんなに目を覆いたくなるような事であっても正しく伝えなければ、学びにならないですし抑止にもならないと思うのです。

ショッキングだからこそ抑止にもなるのです

夢に出てきそうなほど怖く感じた、子供の頃は怖くて読めなかった、この言葉だけ見ていると、避けたほうが良いと感じる人が多いのは当然だと思います。
しかし戦争の悲惨さや原爆の悲惨さを伝えるのに、夢に出てくるほど怖くないといけないと思うのです。子供は怖くて読めないほどのものでないといけないと思うのです。だって、戦争するとどうなるのか、戦争の悲惨さとはどんなものなのか、原爆が落ちるとどうなるのか、原爆が落ちるとどんな悲惨なことが待っているのか、それらは平和な日本にいる私たちの想像をはるかに超えた世界なのですから。

その意味では、なんでもかんでもソフトにしたり今風に置き換えるというのは、考えたほうが良いのかなぁと思うのです。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。