”いけばな”では作品の良し悪しも大切です。しかしそれ以前にいけばなに携わるものとして、もっと大切にしないといけないことがあるのです

こんばんは。内藤正風です。

先週から始まった「いけばな神戸展」も、無事に昨日終える事が出来ました。会期中に会場にお越しくださった光風流の皆さんや仲間や友達には心より感謝するばかりです。

だって、みんなが見に来てくれると思うからこそ作品作りに力が入るし、毎日会場に居ても楽しいんですから。

いけばな神戸展の1週間の中で思ったこと

さてそんな中で「いけばな神戸展」の1週間を通じて凄く疑問に思う事が1つありました。
それは。。。
会期中を通じて手直しに誰も1度も来られない流派があるという事です。あっ、ココでは流派名は伏せておきますね。だってその流派を責める事が目的でここで書いているのではないのですから。

いけばなは生の植物を素材として作品にしています。ということはどんなに強い材料を使っていても、植物が水を吸えば減りますし、2日とか3日とか経つと水も傷んできます。って事は、お花が全く傷んでいなくても、水を足したり水を交換したりということは必要になってきます。
そして普通は、傷んできちゃうお花や、蕾が半開になったり半開が満開になったりして咲き方がイメージと違ってくるお花が出てきますから、お花の交換などは必要な作業になってくるのです。

いけばなの作品は単なるモノではありません

私はいけばなの作品を展示している時の手直しは不可欠な作業だと思っています。その理由は、いけばなの作品に対する敬意だと思うからです。
植物にお水は必要不可欠です。お水がないと植物は枯れてしまいます。お水があっても傷んだ水ではお花は長持ちしなくなっちゃいます。

いけばなを生けていると上手とか下手とかって事についつい目を奪われがちになります。しかし私はいけばなの上手下手以前に華道人としてまず大切にするべきなのは、命ある物への敬意だと思うのです。
植物は言うまでもなく命です。生きているのです。そして器も誰かが作ってくれているという意味で言うならば、作者が命を吹き込んでいるのです。器に入れている水にも清涼な生きた水と淀んでいる死んだ水があるのです。

「いけばな」は、お花を単に綺麗に生ければよいものではない

いくらお花が上手であっても、命ある物への敬意を表し命を大切に扱うということが出来なければ、それは華道人としての資質の問題であり根幹を学ぶ事が出来ていないと思うのです。
私達がしている「いけばな」は「華道」と言います。「華道」とはすなわち、お花を生けるという事を通じて人として大切な事を学ぶと共に自分自身をレベルアップさせていくことなのです。

水替えひとつしない、傷んでいるお花をそのままにしている、そう言う人がいるという事に残念な気持ちでなりません。
まあ少なくとも私ども光風流で学ぶ皆さんには、そういう事が無いように「いけばな」の本質をしっかりと学んで頂く事が出来るように、これからもしてゆきたいと思います。

内藤正風PROFILE

内藤 正風
内藤 正風
平成5年(1993年)、光風流二世家元を継承。
お花を生けるという事は、幸せを生み出すという事。あなたの生活に幸せな物語を生み出すお手伝いをする、これが「いけばな」です。
光風流の伝承を大切にしながら日々移り変わる環境や価値観に合わせ、生活の中のチョットした空間に手軽に飾る事が出来る「小品花」や、「いけばな」を誰でもが気軽に楽しむ事が出来る機会として、最近ではFacebookにおいて「トイレのお花仲間」というアルバムを立ち上げ、情報発信をしています。ここには未経験の皆さんを中心に多くの方が参加され、それぞれ思い思いに一輪一枝を挿し気軽にお花を楽しまれて大きな盛り上がりをみせており、多くの方から注目を浴びています。
いけばな指導や展覧会の開催だけにとどまらず、結婚式やパーティー会場のお花、コンサートなどの舞台装飾、他分野とのコラボレーション、外国の方へのいけばなの普及、講演など、多方面にわたり活動し多くの人に喜ばれています。